2 縄文時代

2022年10月7日

 旧石器時代は寒冷の気候でしたが、縄文時代は温暖化により地形、動物相が大きく変化しました。特に狩猟の道具である弓・矢、伐採具でもある磨製石斧、煮炊き用の土器の発達は定住化をもたらしました。人々は地面を掘った竪穴住居に暮らし、定住の集落を営みました。狩猟・漁労・植物採取を主な生業とした人々による、約一万年間にわたる文化です。日本考古学ではこの時代を草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に区分しています。

 

(1)大空町の縄文早期の遺跡

 北海道の縄文早期の中頃は貝殻による文様が特徴的な土器が主流となります。しかし、広い北海道では道南部と道東部、道央部では様相が異なり地域的な土器がみられます。道南部を代表する「住吉町式」は底部が尖底に対し、道東部の「沼尻式」は平底です。道央部では両方の土器が出土するなど両土器文化の接点でもありました。この変化は道南がブナ・ミズナラなどの落葉広葉樹林帯に対し、道東部は落葉樹にトドマツ、アカマツなどの針葉樹を含む針広混交林帯に属するなど地理的・気候的な影響によるものと考えられています。環境の変化は動物相の変化にも通じるものであり、そこに暮らす人々はそれに対応する土器・石器などを作り上げてきました。

 

(ア)中央A遺跡

 中央A遺跡は沼尻式(約8,500年前)を主体とする遺跡です。沼尻式には貝殻条痕文・貝殻腹縁文・沈線文・刺突文などの土器がみられます。住居や炉跡などは発見されませんでしたが、墓・貯蔵など180基のピットが検出されました。多量に出土した漁網用の石錘から漁労活動、敲き石、磨り石、砥石、くぼみ石などから調理・加工活動など生産性の役割を担う遺跡であったと思われます。北海道東部を代表する価値ある遺跡と言えるでしょう。

 

中央A土器.jpg

 

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中央A遺跡の場所.jpg

 

(イ)豊里石刃遺跡

 豊里石刃遺跡は女満別地区市街地から南西方向およそ5.5キロメートルの地点で、網走川西岸の標高8m程の河岸段丘の辺縁に位置しています。 豊里石刃遺跡と同じ文化の遺跡は、大陸の東シベリア地方のアンガラ川中、上流地域、レナ河の流域、アルダン川流域、アムール河の中・下流域地域、そしてサハリンの海岸地方に分布しています。日本では北海道の東部海岸(オホーツク海沿岸・釧路・根室・十勝地方の海岸)河川の低位段丘上に発見されています(図)。


 豊里石刃遺跡で生活していた人々は、石刃鏃(せきじんぞく)とよばれる独特のヤジリをつくる技術をもっていました。豊里石刃遺跡で生活していた人達は、最後の氷河期も終わりをつげ、地球上が温暖になり、海水面が上昇して間宮海峡や宗谷海峡ができ、北海道が島となりました。さらに暖かさが増してきた約8千年前に、遠く東シベリア、中国東北地方から北海道のこの地方に移ってきました。


 遺跡の数も少なくないのですが、石刃鏃文化の遺跡としては女満別町の豊里石刃遺跡は、最大の規模の遺跡の豊富さを誇る有名な遺跡です。

 

石刃鏃とは.jpg

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豊里石刃遺跡の場所.jpg 

 

(2)大空町の縄文前期の様子

 縄文時代の前期(約6000年前)は世界的に温暖な気候でした。温暖化に伴い海岸地帯など低地は海水面でおおいつくされました。この時期の人々は底が尖ったり、丸い底の土器を好み、土器が割れにくいように植物繊維を混ぜるなど工夫するようになりました。


 土器の文様は矢羽根状の押型文、撚糸(よりいと)文、縄文、無文があります。土器の先が乳房状に突起する尖底の朱円式土器や、すり鉢状に底が丸くなり、口縁とほぼ平行にはしる綱状によった太めの縄文でかざられた綱文(つなもん)式土器、また、平底で刺突文や、櫛歯状の文様を特徴とする櫛目(くしめ)文土器や押型(おしかた)文土器が現れます。


 当時の海水温度は。2月頃の表面最低温度も現在より摂氏5度から8度も高かったとみられます。また、この時期の遺跡の生活面に残された土壌を調べますと、早期の時代に多かった針葉樹の花粉が減り、ミズナラ、カシワ、コナラなどの落葉広葉樹が増えていることが確認されています。


 大空町の網走湖底遺跡から綱文式が出土し、湖南遺跡からは綱文式や櫛目文・押型文土器が出土しています。


 また、北見市常呂町の遺跡からは標高2mの低地に石囲み炉が多数発見されており、焼土の中からニシン、イトウ、ヒラメなどの魚類を主体に、鳥類・哺乳類などの骨片が多量検出されています。オホーツク海を中心に生業活動していたことが判ります。

 

(3)大空町の縄文中期の様子

 縄文時代中期の前半(約4000~5000年前)は、前期からつづいて温暖な気候でしたが、後半になると気温が次第に低くなり、気候変化によって生活条件も、大きく変えなければならなかったようです。


 中期前半は、前期から続いてきた平底の押型文土器は、一部地域では残されていたようですが、道東部の地域に新たに「モコト式」と呼ばれる土器が現れました。


 縄文時代中期の後半になり、涼しい時期になると「北筒(ほくとう)式」と呼ばれる土器があらわれてきます。北筒式土器は、「土器を作る粘土の中に植物繊維が含まれているもの」、「口縁に厚い帯状の粘土紐がつけられ、そのすぐ下に円形の刺突文がつけられるもの」、「口縁に4、6、8、12個ほどの山形の突起がつけられるもの」など、時代とともに口縁の形も変化をみせてきます。古いほうから新しい時期に向かい、5つの時期に区分されています。


 大空町では住吉遺跡がこの頃の遺跡です。A竪穴住居から3個体の北筒式(トコロ六類)が出土しています。

 

(4)大空町の縄文後期の様子

 縄文時代の前期から中期前半にかけての高温で温暖な気候がしだいに涼しくなり、中期後半から後期(約3000年前)にはいると一段と寒くなりました。自然環境も変化して、人々も住みづらくなり、遺跡の数も少なくなったものと考えられます。これまでのところ、大空町ではこの頃の遺跡は発見されていません。

 

(5)大空町の縄文晩期の様子

 この時期(約2000年前)になると、縄文時代中期から後期にわたって涼しく冷たかった気候もおさまり、ほぼ現在のような気候状態となりました。土器も深鉢形・浅鉢形・壺形・船形・片口形・双口形の土器など、多くの形の土器が作られるようになります。


 石器では、石鏃、石槍、掻器、石錐、磨製石斧、矢柄研磨器など、後期と同じ種類のものが見られます。なかでも石鏃は、有茎のものと無茎のものがありますが、無茎のものが目立って多くなってきます。掻器は円形のものが多く見られるようになってきます。

地図

中央A遺跡、豊里石刃遺跡

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