「女満別教育」について

2022年8月12日

生活建設の教育(昭和11年~昭和17年)~歴史に残る女満別教育の開花と受難の時代~

 単に女満別だけではなく、オホーツク地方における教育の、まさに中心的な存在として、そして全国の注目をあびた、昭和11年から16年にかけての松樹美代治校長を中心とする「生活建設の教育」。当時の国家主義的、形式的、権力的教育の流れの中で、子ども自身が自分で計画し、自分で実践する~生活意欲を高めることを基調とする教育、そして、真実の教育を求めてやまない教師たちのひたむきなとりくみ。これは今日でも高く評価され、私たちの胸をゆさぶる。

 

 同時に苦難の時代でもあった。昭和11年の2・26事件。軍国主義的な教育は強化され、追いうちをかけるが如く女満別における、うち続く冷害不況は、目をおおうものがあった。昭和15年11月の生活綴方弾圧事件における本校教員小鮒寛の検挙、昭和16年8月松樹校長の退職、職員の不意転(強制転勤)。そして昭和16年12月8日、太平洋戦争へ突入。

 

 短い夏の北国の草花の如く、咲いて散り、凍土に実を落とした。明けない春、幾星霜。長い「冬の時代」を経、「生活建設の教育」がよみがえるのは敗戦をまたなくてはならなかった。戦後の民主教育の理想と実践が、すでに暗い冬の時代に、寒村女満別にて、うぶ声を上げていたのである。しかしこの事実が広く世に知らされるのは一部の識者をのぞき、それから数十年をまたなくてはならなかった。

 

【出典】 女満別小学校の歩み80年・統合20周年記念誌 P90

 

 松樹.jpg 

女満別教育の特色

 女満別教育の特徴の第一は、日常の教育活動が、教材の暗記と解釈と説明に多くの時間を費やしている現状に対する反省をし、生活を建設する教育を行うことにあった。
 松樹校長が、女満別小学校の先生方に向けて書いた論文『教育を見直す』の中に、生活を建設する教育にかかわる考え方が示されているが、その骨子となるものを紹介する。

  1. 諸君も育とう、児童と育とう、私も育とう、教育の営みを通して共に育とう。
  2. 私の落行くところは生活の教育しかないのだ。即ち、児童が生活するそのことに教育の基調をおくのである。
  3. 一体従来の教育は、その着眼を結果のみに置きすぎた。もっと悪口を言うならば、修得した量に価値を置き、どうかすると成績考査簿に教育が従属してしまっている。
  4. 学習は、児童にとって正しく生活できなくてはならぬ。(中略)この生命の自らの発動たる力に乗せて学習生活を遂行し、喜びつつ進んでなすのである。
  5. 生活の進展には、(目的→現実反省→計画→実現→結果反省→向上→創造)という系統づけが必要である。ここに生活単元がある。
  6. 教育を急ぐな。急ぐなとは気を緩めよとの意味ではない。根本を培うことを忘れがちになり、勢いの赴くところ形式的になり融通を欠き、権柄ずくで児童に対し、専制的、弾圧的になるからである。
  7. 見せよう、あるいは見てくれ教育になるな。成心があってはならぬ。研究的であることは必要であるが、見せよう精神は、教育の対象を児童に置かず、自分の立場を有利に導くことが目標となり、児童はその手段とされる。
  8. 怒らぬ教育を望むのである。今の教育は点数で威嚇し、教師の怒りで威嚇する。怒らなくてもよい教育を目指すべきである。怒らなくても済む児童を仕立てることに苦心したいのである。
  9. 認めてやる教育である。誰が認めなくてもよいぞ。先生だけは認めてやるぞ。この先生の境地。しかして児童にしては、先生だけは自分を認めてくれている人だ。この安心しきった信頼が交わされねばならぬ。児童だって人間だ。どこかによいところはきっとあるはずだ。今は或いはそれはなくとも芽はあるはずだ。更に何もないときは、その認むべきものを教師が拵えてやれ。それでも不可能なれば、認とむべき機会を一生懸命に待っておれ、そして認とむべきものに触れたときこそ手を取り合って、自分のことのように喜ぶ教師でなくてはならぬ。
  10. 私の意味する指導的精神の何物であるかは、即ち生活することである。自ら目的し、自ら計画し、自ら実践する底の生活である。しかして自発する生活意欲であり、社会性に導かれたる生活意欲である。この自発性と社会性に立つ学校生活、学級生活、社会生活でなければならぬ。
  11. けんらんと咲く菊の花も、実は地下に生長している根にその根元がある。幼児の教育、小学校の教育は、人間の根っこを育てる時期なのである。教師は、何か豊富にもっておればおる程発表したくなる。時間がいくらあっても足りない。しかしそれは子どもを見ているのではなくて、教材や自分の方向に目が向いていくのである。現にその現れとして、子供は機械化し、物質化し、差別化し、服従化していたではないか。
  12.  この世の現象は、すべて生命を中核としている。児童生徒が生命に触れ、自己の生命を発見したとき、そこに躍動があり、積極的な活動がある。

 

【出典】 平成17年度女満別町教育経営計画書「女満別教育の教育」教育のあゆみP20

 

 松樹家族.jpg 

三期学習法について

 教育は児童の生活を建設する営みにその使命があるとする生活建設の教育観を具体化するために考案された学習方法が三期学習、即ち教科書追随主義から離反した学習方法である。

 

 三期学習とは単元を一つ一つ完了して進むのではなく、数単元あるいは教科書一冊を学期毎に終了し、3度繰り返って学習するやり方である。教師が教えてやる、子供は教えてもらうという教師中心の教授法から脱却して、教師と児童が共に授業を行っていく方法である。

 

  1. 三期学習によって、児童は、同一の教材について、前後3回いろいろな形で学習するのである。
  2. (見通し学習)(考える学習)(なれる学習)(ひとり学習)(友達学習)(全体学習)は、松樹校長の下で共に三期学習に取り組んだ藤岡哲三郎教頭が、昭和27年から常呂小学校の校長として勤務していた時に用いたものである。

[学習順序]の概説

  1. 第一期(解読学習):学年に応じ、科目全体を概観することを目的とした学習
  2. 第二期(詳読学習):各単元の分節的考察を目的とした学習
  3. 第三期(とりまとめ学習):再び全体に戻って、比較、応用、練習を主とした学習

[学習形態]の概説

  1. 独自学習:先ず始めに、児童と教師がそれぞれ教材と取り組んで、それぞれの学習をする。
  2. 分団、協同学習:それを基にしてお互いに発表しあい、よりよいものを構成する。
  3. 統導学習:更に学習全員に発表して(教師も参加)互いに討議し合い、評価し合い、応用し合って学習を定着させる。

 驚くことに、低学年では三期学習の前段として、「綜合学習(合科学習ともいう)」がすでに実践化されていたのである。それは、三期学習をするにしてもその基礎となる能力や態度が未開発であり、前段として、社会の事象、自然の事象、身体に関する事象、文化財の事象に対する能力、表現技術を開発しておくことが最良の道であり、低学年の心理的発達に相応しいと判断したからであった。

 

【出典】 平成17年度女満別町教育経営計画書「女満別の教育」教育のあゆみP21

三期学習法とは.jpg

 

 三期学習.jpg 

女満別町「綴方連盟事件」概要~ありのままの生活を書かせた先生が検挙される~

 戦時体制に組みこまれたのは大人だけではない。長いあいだ親しまれていた小学校1年生の国定教科書「ハナ、ハト、マメ、マス」は姿を消し、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」というように、軍国主義的色彩の強いものにかえられた。教育の場での自由な発言や行動は抑圧され、皇国史観にもとづく画一的な教育が推しすすめられていった。

 

 治安維持法が公布されてからは、教育現場に対する思想統制はいっそう強化された。そして、一方的に押しつけられる教育方法に反対する教師は、“左翼思想”の持主として弾圧をうけた。「綴方教育連盟事件」は、このような背景から起きた事件である。

 

 綴方教育とは、作文をとおして子どもたちが自分の生活を見つめ直し、新しいものの見方、考え方を身につけることによって、生活に結びついた教育をすすめていこうとしたものである。北海道綴方教育連盟は教師の自主的団体として1935年(昭10)に組織され、女満別小学校でも小鮒寛教師を中心に活動していた。このころ思想統制にあたっていた内務省は、綴方教育を現実に批判的な目を育てる“危険思想”としてとらえ、弾圧をねらっていた。じっさいに治安維持法により摘発したのは1940年(昭15)11月21日で、道内で3人の教師が検挙され、そのなかに小鮒寛も入っていた。特高があらわれたのはちょうど学芸会の日の朝で、“先生が赤で引っ張られていった”と、子ども心に記憶している人も多い。このあと道内で小学校教師の検挙が相次ぎ、総数53人にものぼっている。小鮒寛は裁判の結果、懲役2年、執行猶予5年の判決をうけた。

 

 子どもたちに自分の生活をありのままに書かせることが、国家にとってそんなに危険なことだったのだろうか。たとえば、検挙の理由としてあげられたのは、寝小便をして母親に叱られたことを書いた作文に、教師が書き込んだ「ハズカシイコトダガ、ゲンキヨクカケマシタネ。ゲンキヨク、ショウジキニジブンノコトヲソノママカクト、ツズリカタハジョウズニナルネ」という評である。これに対し、検事は「生活真実の暗黒面を探索、其真相を暴露する方法を通じ、階級意識に芽生えしむことを狙う指導者」と決めつけた。めちゃくちゃな論理だが、当時はこれがまかり通るような異様な時代だった。

 

【出典】 女満別小史p205~p209

綴方事件.jpg 

 小鮒.jpg 

女満別教育の終焉

 「女満別の教育」を語るに当たって、戦前、全国にその名をとどろかした女満別小学校の(当時、それは「女満別教育」と言われた)を想起しておかなければならない。


 現在、網走管内の教育について、網走教育局では”オホーツク教育”と言う冠をつけて総称しているが、その源が戦前の”女満別教育”の管内における広がりであると言われている。


 これほど評価され、絶賛された女満別教育であるが、同校の小鮒寛先生が、昭和15年10月に「綴り方事件」に関係していたということで警察に検挙された後、16年4月には藤岡教頭が転勤させられている。同年9月末までの間に、松樹校長が退職し、野村、奥山、山崎、直江の各教師が転勤されるに至って、 事実上「女満別教育」は解体させられ終焉を遂げたのである。

 

【出典】 平成17年度女満別町教育経営計画書「女満別の教育」教育のあゆみP19~20

 

女満別教育の評価

 松樹校長夫人の記録「北見の人々」(昭17)の中に、「波多野完治先生来村」という1章がある。昭和14年10月、女満別小第2回公開研修会に波多野完治が来校、翌15年2月号の、ある教育雑誌に発表されたという「北海道教育の印象記」の中から、女満別教育について記されている部分の抜書がのせられている。

 

 「例へば音楽(唱歌)について、一つの歌曲の解釈が私共~といふのは東京のインテリといふことだ~大体同じやうなところまで到達しているといったら、大体その高さの程がのみこめるであらう。~この5年の少女達のもっている音楽は、分教場に毛の生えたようなものではなく、大都市の相当な専科教師のついているところに匹敵すると、私には思はれた。
~とに角、あらゆる教科に亘ってこの程度の高さが、この寒村の小学校には存在するのである。だからこれは、一人一人の教師の偉さではなくて、学校の偉さである。そして、学校経営を完成した松樹校長の努力であると思わはれる。」

 

 当時女満別小学校に来校したのは、波多野完治だけではなく、留岡清男、管中道、関口泰、百田宗治、平野婦美子、今野一郎らがおり、全道からの一般教員の参観も毎日10人は下らなかったという。

 

 留岡清男も昭和15年10月の「中央公論」(特集・知識人の方向、「国民教育の痛憤」)の中で次のようにのべている。
「~そこには松樹美代治校長の統率する有名な女満別小学校がある。私は去る2日前、この小学校をくまなく参観したが、特に奥山先生が担当する尋常5年の女生徒の唱歌の授業をみせて貰って、深く感銘するところがあった。
 教材は「海」といふ曲と歌詞とであったが、一人の女生徒が指名されて、予め予習してきた曲の解釈を説明した。そして説明が一応終ると、質問はありませんかと促して、その女生徒と、他の多くの女性徒との間に、活発な質問応答が展開された。私はこれをじっと聞いていて、読譜力は勿論のこと、曲の理解といひ解釈といひ決して予め先生から注入された付焼刃的なものではなく尋常1年生から鍛へあげられたものであるということを確認した。
松樹校長の語るところによると、別に音楽学校出身でもない奥山先生の勉強と努力とは並大抵なものではないということであるが、それは奥山先生の唱歌教授ばかりでなしに、山崎先生の修身教授でも、藤岡先生の理科教授でも、久山先生の地理教授でも、また小鮒先生の複式授業でも、実に工夫を重ねた拳句のものであって、先生一人一人をこれほどまでに百%活動させる松樹校長の指導力には、実に驚暵に値するものがあったといはなければならないのである。~」

 

【出典】 女満別小学校の歩み80年・統合20周年記念誌 P91

 波多野.jpg

お問い合わせ

生涯学習課
電話:0152-74-2111